世界征服
2008年04月06日
オレは親父があまりにも不良だったせいで、物心もつかない頃から何度も親父の母親である祖母に連れ出され、祖母と一緒に生活していた。
幾歳月かは親父と暮らしていたらしいが、ほとんど記憶にない。
実の母も、不良の親父に愛想を尽かし、いなくなっていた。
祖母は、とても芯が強く、堅い人だった。が、最高の不良だった親父を創った人だ。負けずに不良だったことは、自他共に認めるところだろう。実際には、親父のねえさんである伯母の家(以前に話した伯父貴の家)の炊事や掃除をして、かわりに伯父貴に生活の面倒をオレともどもみてもらっていたのだと思う。伯父貴夫婦は自転車で通える距離の場所で、鞄屋を営んでいたので、朝二人(とスピッツのチイ子)で出掛けると、夜まで帰って来ない。その間の留守番も、祖母が兼ねていた。
オレは伯父貴の家のすぐ近く4畳半のアパートで、祖母と二人で暮らしていた。
便所どころか、台所でさえ共同の古いアパートだった。
もちろん、毎日二人分の布団を上げ下ろしし、アパートの一間は、寝室になり、食堂になり、オレの勉強部屋になり、祖母のおさらい部屋となった。
絵に描いたように、茶箱(木箱)を引っくり返した机で宿題をやっつけた。
飯は、共同の台所で、祖父が日本軍からもらった鋳物の飯盒で炊いた。
でも、誤解をするな。
これが、ほんとうに美味いのだから。
小学校の林間学校の飯盒炊爨(ハンゴウスイサン)で、オレはヒーローとなった。
祖母は、三味線の奥名取りで、三味と小唄の免許皆伝、そして、身内ながら、端正な顔をした所謂「深川小町」然とした小柄なカッコイイバアチャンだった。茶箱の前に正座して勉強をしている振りをしているオレの、中途半端な態度を鋭く見抜くと、皺くちゃな細腕で、右と左に用意した”和裁用の竹のものさし”と”ふとんたたき”を使い、容赦なくオレをぶったたいた。このオレが、大人しく正座をさせられていた。こわいバアチャンでもあった。
祖母の毎日は、家事の他は、「三味」、「歌(小唄)」、「たばこ」、「酒」、そして、たまのおさらい会(発表会)に明け暮れていた。常日頃着物を着ていた祖母。ぞうきんがけにはもんぺも愛用するばあさんだが、おさらい会ともなるとピシッとした着物姿に三味線の竿がよく似合っていた。
当時、まだ珍しかったモノラルのハンディラジカセを、自分の三味線と小唄の練習用に使っていたのも覚えている。とにかく、練習(おさらい)熱心、その合間に酒、たばこ。だが、その性なのか、胸を患っていて、しょっちゅう血を吐いては咽せていた。医者からは、酒とたばこと唄をやめないと命の保証はできないと言われていた。でも、聞いている節はなかった。血を吐いた祖母の背中をさするのはオレの役目だった。オレは、世の中のバアサンは皆、血を吐くものだと思っていた。
小さい時、大人の都合で数度の転校を繰り返したオレは、卒業するまで居た小学校に転校した直後、当然の儀式のようにいじめられた。そんなことは分かりきっていて、少なからずガキの喧嘩の腕に覚えのあるオレだったが、卑怯な奇襲に遭いあえなくやられた。
祖母の待つ伯父貴の家に、しょぼくれて解りやすくやられた様のオレが重い足取りで帰り着くと、祖母は一瞬で事態を看破し、そうしてオレのことを閉め出したーーーーー。
「負けたままどのツラさげて帰って来るんだ!」
という無音の声が、オレの頭に鳴り響いた。
オレは、意を決して、やられた奴らを追いかけた。
すでに、帰宅したとみえ、誰も見つからなかったので、自宅を知っている奴らの家に参上、外から見える窓ガラスをポケットに満載にした石ッコロで次々に割って回った。全部!
相手は5、6人だったが、自宅を知っていたのは3軒ほど。それでも、業を成しとけで再びアパートに帰り着いた時には、やつらの親どもが押し掛けていて、喧々囂々、祖母は深々と頭を下げていた。
親どもがわめき散らしながらも帰った後、オレは「絶対悪くない!」と思う反面、祖母の怒りを買うのが本当に恐ろしかった。
だが、祖母は怒らなかった。
「よくやった」
と、またしても無言の声が、オレを包んだ。
オレをはめた奴らとは、その後たちまち悪ガキ仲間となり、卒業するまでつるんで遊んでいた。
幾歳月かは親父と暮らしていたらしいが、ほとんど記憶にない。
実の母も、不良の親父に愛想を尽かし、いなくなっていた。
祖母は、とても芯が強く、堅い人だった。が、最高の不良だった親父を創った人だ。負けずに不良だったことは、自他共に認めるところだろう。実際には、親父のねえさんである伯母の家(以前に話した伯父貴の家)の炊事や掃除をして、かわりに伯父貴に生活の面倒をオレともどもみてもらっていたのだと思う。伯父貴夫婦は自転車で通える距離の場所で、鞄屋を営んでいたので、朝二人(とスピッツのチイ子)で出掛けると、夜まで帰って来ない。その間の留守番も、祖母が兼ねていた。
オレは伯父貴の家のすぐ近く4畳半のアパートで、祖母と二人で暮らしていた。
便所どころか、台所でさえ共同の古いアパートだった。
もちろん、毎日二人分の布団を上げ下ろしし、アパートの一間は、寝室になり、食堂になり、オレの勉強部屋になり、祖母のおさらい部屋となった。
絵に描いたように、茶箱(木箱)を引っくり返した机で宿題をやっつけた。
飯は、共同の台所で、祖父が日本軍からもらった鋳物の飯盒で炊いた。
でも、誤解をするな。
これが、ほんとうに美味いのだから。
小学校の林間学校の飯盒炊爨(ハンゴウスイサン)で、オレはヒーローとなった。
祖母は、三味線の奥名取りで、三味と小唄の免許皆伝、そして、身内ながら、端正な顔をした所謂「深川小町」然とした小柄なカッコイイバアチャンだった。茶箱の前に正座して勉強をしている振りをしているオレの、中途半端な態度を鋭く見抜くと、皺くちゃな細腕で、右と左に用意した”和裁用の竹のものさし”と”ふとんたたき”を使い、容赦なくオレをぶったたいた。このオレが、大人しく正座をさせられていた。こわいバアチャンでもあった。
祖母の毎日は、家事の他は、「三味」、「歌(小唄)」、「たばこ」、「酒」、そして、たまのおさらい会(発表会)に明け暮れていた。常日頃着物を着ていた祖母。ぞうきんがけにはもんぺも愛用するばあさんだが、おさらい会ともなるとピシッとした着物姿に三味線の竿がよく似合っていた。
当時、まだ珍しかったモノラルのハンディラジカセを、自分の三味線と小唄の練習用に使っていたのも覚えている。とにかく、練習(おさらい)熱心、その合間に酒、たばこ。だが、その性なのか、胸を患っていて、しょっちゅう血を吐いては咽せていた。医者からは、酒とたばこと唄をやめないと命の保証はできないと言われていた。でも、聞いている節はなかった。血を吐いた祖母の背中をさするのはオレの役目だった。オレは、世の中のバアサンは皆、血を吐くものだと思っていた。
小さい時、大人の都合で数度の転校を繰り返したオレは、卒業するまで居た小学校に転校した直後、当然の儀式のようにいじめられた。そんなことは分かりきっていて、少なからずガキの喧嘩の腕に覚えのあるオレだったが、卑怯な奇襲に遭いあえなくやられた。
祖母の待つ伯父貴の家に、しょぼくれて解りやすくやられた様のオレが重い足取りで帰り着くと、祖母は一瞬で事態を看破し、そうしてオレのことを閉め出したーーーーー。
「負けたままどのツラさげて帰って来るんだ!」
という無音の声が、オレの頭に鳴り響いた。
オレは、意を決して、やられた奴らを追いかけた。
すでに、帰宅したとみえ、誰も見つからなかったので、自宅を知っている奴らの家に参上、外から見える窓ガラスをポケットに満載にした石ッコロで次々に割って回った。全部!
相手は5、6人だったが、自宅を知っていたのは3軒ほど。それでも、業を成しとけで再びアパートに帰り着いた時には、やつらの親どもが押し掛けていて、喧々囂々、祖母は深々と頭を下げていた。
親どもがわめき散らしながらも帰った後、オレは「絶対悪くない!」と思う反面、祖母の怒りを買うのが本当に恐ろしかった。
だが、祖母は怒らなかった。
「よくやった」
と、またしても無言の声が、オレを包んだ。
オレをはめた奴らとは、その後たちまち悪ガキ仲間となり、卒業するまでつるんで遊んでいた。
2008年02月10日
俺のガキの頃の自慢の一つで、これは結構ゆずれないというものが『ベーゴマ』。勝敗に、自分のベーゴマを賭けるというルールは、しらずしらずガキの男心を揺さぶった。
ベーゴマを通して、現在の俺の原点がいくつか生まれている。
一つは、「(絶対に)負けない」ということ。
もう一つは、負けないための創意工夫。
当時、俺が住んでいた地区には、町工場がひしめき、ありとあらゆる好奇心をそそる材料や道具が転がっていた。
まず、「ビー玉工場」。もちろん、ビー玉はB玉で、要するにA玉の「はつり」品。捨てられたビー玉が山になっていて、拾い放題。まさに宝の山。
そんな中で、店舗用什器を作っている工場(たしかアマモリさんとかヤマモリさんという名の製作所)では、鉛の棒の端材が沢山捨てられていた。ステンレスのパイプなどを溶接するためのハンダ棒のたぐいと思われる。それを、仲良くなった工場のおじさんからもらった。おじさんからもらえたのは鉛の木っ端だけではない。
「鋳造」の技術である。
家の裏にあった「たんぼ」(もちろん他所様のもの)のいい場所から採取した土をきれいにならして、表面に物体を押し付ける。物体を取り除いて出来た穴に、融けた鉛を垂らす。
そう、俺の生まれて初めての鋳造経験は、ベーゴマだった。
黒い表土の関東ローム層は、少し掘ると粘土質の土が増えてくる。出来るだけキュっとした型を作るためには、きめの細かい土が必要だ。
さらに、強いベーゴマを作るためには、型を取られるべき「強いベーゴマ」が必要である。これは、どうするのか。
市販されているベーゴマを自分で改造して、強い形にするのだ。
今でも売られているベーゴマは、すべて鉄製。上面に漢字やアルファベットがレリーフ状に刻まれている。俺はなぜだか、「K」という文字と「R」という文字のものだけを集めていた。文字がレリーフになっているので、多少、バランスに関係していたと思われる。とにかく、俺の中では「K」か「R」が強かった。
改造のポイントは、背の低さとお尻の丸さ、外側の角の立て具合。
ベーゴマは、バケツに帆布をかぶせ紐で縛って少し弛ませ、その上めがけてベーゴマを投げるように回し入れて、相手のベーゴマを弾き飛ばした方の勝ち。相手は1対1の場合も有るし、数人の場合も有るが、とにかく低く回り込んだ方が強い。だから、背が低い方がいい。お尻は限りなく丸い方が、コマ自体が弧を描いて場の中心に潜り込んでいく。ただし、センターがずれるとアウト。低く低く滑り込んだら、鋭く斜めに削り落とした肩で相手のコマを弾き出す。その上、重ければもっといい。削ると軽くなるので、上に5円玉貼ったりした。1円玉だと軽すぎる。
そうして歴戦をかいくぐった強いベーゴマを元に、鉛のベーゴマを鋳造した。
砂型ならぬ粘土型から鋳造されるベーゴマは、結構失敗を繰り返しながらも、いくつかは最強のベーゴマとなる。もちろん、鋳型から出したコマをさらにチューニングした。
重くて、低くて、鋭い鉛のベーゴマは無敵だ。ただ、すぐに磨耗してしまう弱点が有った。だから、ここぞの大勝負の時だけ大事にポケットから取り出し使った。
俺らは、戦利品のベーゴマを缶カラに入れて保管し、缶からごと持ち寄って遊んだ。缶カラは、これもなぜだか、スキムミルクのL缶だった。俺は、ベーゴマでいっぱいのスキムミルクの缶を3缶は保有していた。中には、お茶の缶とか、その他の箱のやつも参戦していた。そういう奴は、缶の種類でよそ者だとわかった。もっとも、大抵が同じ小学校の連中なので、缶カラを見なくても狭い地区の同じ仲間かそうでないかぐらいは分かっていたのだが。
ベーゴマを回すのに、ひもの先に二つの結び目を作る。
この作り方にも流儀が有って、ポピュラーなのは端を少し残して1つ目の結び目を、そこから1cmくらい離れたところのもう1つを作る方法。安定して回せる。
俺がやっていたのは、一番端に1つ目を結びお尻に当て、ひもを一度ベーゴマの上を渡らせてお尻にも度ってきたところにもう1つを作るという方法。この方が、ベーゴマが回りはじめて最後にひもがベーゴマから離れる瞬間に、さらに加速を与えられる。ギュンと!
この結び方=回し方が出来るやつは、仲間にもあまりいなかった。
鉛のベーゴマを使用していいのは、俺らのルールだ。
辻を越える度、角を曲がる度ごとにその地区の暗黙の細かく異なったルールが存在した。
違う地区に遠征に行ったら、その地区のルールに従わなければならない。
ガキどおしのルールは、その時の人間関係の勢力図で簡単に塗り替えられたりもした。
だから、鉛のベーゴマに関する使用許可及び使用方法は、俺が作った俺らの「江戸川区本一色六番地(現在は町名変更で本一色一丁目2番)限定」ルール!
こうして俺の中に、「絶対に負けない!」人生観が芽生えていた。
ベーゴマを通して、現在の俺の原点がいくつか生まれている。
一つは、「(絶対に)負けない」ということ。
もう一つは、負けないための創意工夫。
当時、俺が住んでいた地区には、町工場がひしめき、ありとあらゆる好奇心をそそる材料や道具が転がっていた。
まず、「ビー玉工場」。もちろん、ビー玉はB玉で、要するにA玉の「はつり」品。捨てられたビー玉が山になっていて、拾い放題。まさに宝の山。
そんな中で、店舗用什器を作っている工場(たしかアマモリさんとかヤマモリさんという名の製作所)では、鉛の棒の端材が沢山捨てられていた。ステンレスのパイプなどを溶接するためのハンダ棒のたぐいと思われる。それを、仲良くなった工場のおじさんからもらった。おじさんからもらえたのは鉛の木っ端だけではない。
「鋳造」の技術である。
家の裏にあった「たんぼ」(もちろん他所様のもの)のいい場所から採取した土をきれいにならして、表面に物体を押し付ける。物体を取り除いて出来た穴に、融けた鉛を垂らす。
そう、俺の生まれて初めての鋳造経験は、ベーゴマだった。
黒い表土の関東ローム層は、少し掘ると粘土質の土が増えてくる。出来るだけキュっとした型を作るためには、きめの細かい土が必要だ。
さらに、強いベーゴマを作るためには、型を取られるべき「強いベーゴマ」が必要である。これは、どうするのか。
市販されているベーゴマを自分で改造して、強い形にするのだ。
今でも売られているベーゴマは、すべて鉄製。上面に漢字やアルファベットがレリーフ状に刻まれている。俺はなぜだか、「K」という文字と「R」という文字のものだけを集めていた。文字がレリーフになっているので、多少、バランスに関係していたと思われる。とにかく、俺の中では「K」か「R」が強かった。
改造のポイントは、背の低さとお尻の丸さ、外側の角の立て具合。
ベーゴマは、バケツに帆布をかぶせ紐で縛って少し弛ませ、その上めがけてベーゴマを投げるように回し入れて、相手のベーゴマを弾き飛ばした方の勝ち。相手は1対1の場合も有るし、数人の場合も有るが、とにかく低く回り込んだ方が強い。だから、背が低い方がいい。お尻は限りなく丸い方が、コマ自体が弧を描いて場の中心に潜り込んでいく。ただし、センターがずれるとアウト。低く低く滑り込んだら、鋭く斜めに削り落とした肩で相手のコマを弾き出す。その上、重ければもっといい。削ると軽くなるので、上に5円玉貼ったりした。1円玉だと軽すぎる。
そうして歴戦をかいくぐった強いベーゴマを元に、鉛のベーゴマを鋳造した。
砂型ならぬ粘土型から鋳造されるベーゴマは、結構失敗を繰り返しながらも、いくつかは最強のベーゴマとなる。もちろん、鋳型から出したコマをさらにチューニングした。
重くて、低くて、鋭い鉛のベーゴマは無敵だ。ただ、すぐに磨耗してしまう弱点が有った。だから、ここぞの大勝負の時だけ大事にポケットから取り出し使った。
俺らは、戦利品のベーゴマを缶カラに入れて保管し、缶からごと持ち寄って遊んだ。缶カラは、これもなぜだか、スキムミルクのL缶だった。俺は、ベーゴマでいっぱいのスキムミルクの缶を3缶は保有していた。中には、お茶の缶とか、その他の箱のやつも参戦していた。そういう奴は、缶の種類でよそ者だとわかった。もっとも、大抵が同じ小学校の連中なので、缶カラを見なくても狭い地区の同じ仲間かそうでないかぐらいは分かっていたのだが。
ベーゴマを回すのに、ひもの先に二つの結び目を作る。
この作り方にも流儀が有って、ポピュラーなのは端を少し残して1つ目の結び目を、そこから1cmくらい離れたところのもう1つを作る方法。安定して回せる。
俺がやっていたのは、一番端に1つ目を結びお尻に当て、ひもを一度ベーゴマの上を渡らせてお尻にも度ってきたところにもう1つを作るという方法。この方が、ベーゴマが回りはじめて最後にひもがベーゴマから離れる瞬間に、さらに加速を与えられる。ギュンと!
この結び方=回し方が出来るやつは、仲間にもあまりいなかった。
鉛のベーゴマを使用していいのは、俺らのルールだ。
辻を越える度、角を曲がる度ごとにその地区の暗黙の細かく異なったルールが存在した。
違う地区に遠征に行ったら、その地区のルールに従わなければならない。
ガキどおしのルールは、その時の人間関係の勢力図で簡単に塗り替えられたりもした。
だから、鉛のベーゴマに関する使用許可及び使用方法は、俺が作った俺らの「江戸川区本一色六番地(現在は町名変更で本一色一丁目2番)限定」ルール!
こうして俺の中に、「絶対に負けない!」人生観が芽生えていた。
2007年11月25日
「パラシュートリンチ」と言う言葉に聞き覚えが有る方、そう、あれである。『あしたのジョー』の中で、少年鑑別所に収容されてしまった主人公・矢吹丈が受ける所謂リンチである。口にボロ雑巾を突っ込まれ押さえ込まれた体の上に、同房の少年達が二段ベッドの上から次々に飛び下りる。考えると『グエ〜ッ』となる行為だ。
ここで、『あしたのジョー』に関して全く知識の無い方々に少しだけ説明を。
『あしたのジョー』は、梶原一騎(本作でのペンネームは高森朝雄)原作、ちばてつや画による昭和40年代に少年達の間で爆発的人気を得たボクサー漫画である。俺ら悪ガキどもは、漫画の連載を追いかけて始まったTVアニメに夢中になった。ジョーを取り囲む環境=下町,ドヤ街、そして不器用な人情は、俺らのすぐ傍に存在していた。
で、パラシュートリンチ。
を、俺はやった。
先に説明した通り、これは一人では出来ない。数人の悪ガキ仲間で同級生の男子を押さえ込み、机の上から飛び下りたのだ。あげく、丸裸にしてパンツを一等遠くの女子トイレに捨てに行った。どうしようもないガキだ。ただし、誤解の無いように。ここで剥かれた男もいつも遊んでいた友達の一人だ。名前も未だ覚えている数少ない一人である。もちろん、飛び下りる時に手加減(足加減?)もした。足を開いて落ちたり,横に落ちたりするのだ。だから、逆に着地に失敗して、飛び下りる方が怪我をしたりもする。それでも、やられている方はかなりビビッて泣き出したりした。
昨今の世知辛い世の中では、許し難い行為であろうが、これも俺らにとっては大事な遊びの一種だった。そこに参加していない他の同級生、特に女子には冷ややかな眼で見られていたのは間違い無いが。また、前出のやられていた一人の他に標的がいたかどうかは、今では記憶が曖昧である。
俺らがガキの頃の学校は、授業時間以外のガキどおしのコミュニケーションの場として、そして大人社会の手前のガキの社会の中での自己の形成に多いに役立っていた。最近の子供達はなんだか異常に忙しいらしく、そこのところをうまく使えないようだ。だから、子供のまま社会に出て,尚且つ,子供のまま生き続けているようにみえる。
さて、余談であるが,俺の下の名前=NOBORUは、登山の『登』と書いて『ノボル』と読む。どうってこと無い名前だが,実は生まれた時につけられた名前はどうってこと有る名前だった。読み方は今と同じ『ノボル』、でも漢字が『上』という字を当てて,『ノボル』と読ませた。で、名字が『川上』な訳で,続けると『川上上』。『カワカミカミ。。。』
不良の親父が3・3・3(画数が)のカブで、縁起がいいだろうってことでつけたらしいが,バアさん(親父の母・俺のほんとの祖母)の当時凝っていた生命判断によると、3文字で総画が9画というのは、最悪で、なんでもうまくいきすぎて早死にするという。そんな訳で,俺が小学校に上がったぐらいの時期に裁判所において戸籍を変えるという騒動が起こった。
そんな時、前回のブログに出ていた俺の伯父貴が何を思ったか、新命名として『源志郎』(ゲンシロウ)という名を俺につけた。俺は,しばらくその難しい漢字に閉口しながらも『源史郎』を名乗っていた。しかし、戸籍というのは文字を替えても読み方を変えない、またはその逆に文字を替えずに読み方を変えるかのどちらしか認められないらしく、和え無く伯父貴の『源史郎』案は却下され,今の『登』に落ちついた。
俺は,友達から『上』と書いて『ジョー』と呼ばれていたので,結構気にいっていたのだが。
今の俺の名前は『川上登』。川の上を目指して必死に登っていく。その上の世界を目指して。
俺の世界征服の長い道のりは『川上登』になった時から始まった。
これはこれで、結構気に入っている。
ここで、『あしたのジョー』に関して全く知識の無い方々に少しだけ説明を。
『あしたのジョー』は、梶原一騎(本作でのペンネームは高森朝雄)原作、ちばてつや画による昭和40年代に少年達の間で爆発的人気を得たボクサー漫画である。俺ら悪ガキどもは、漫画の連載を追いかけて始まったTVアニメに夢中になった。ジョーを取り囲む環境=下町,ドヤ街、そして不器用な人情は、俺らのすぐ傍に存在していた。
で、パラシュートリンチ。
を、俺はやった。
先に説明した通り、これは一人では出来ない。数人の悪ガキ仲間で同級生の男子を押さえ込み、机の上から飛び下りたのだ。あげく、丸裸にしてパンツを一等遠くの女子トイレに捨てに行った。どうしようもないガキだ。ただし、誤解の無いように。ここで剥かれた男もいつも遊んでいた友達の一人だ。名前も未だ覚えている数少ない一人である。もちろん、飛び下りる時に手加減(足加減?)もした。足を開いて落ちたり,横に落ちたりするのだ。だから、逆に着地に失敗して、飛び下りる方が怪我をしたりもする。それでも、やられている方はかなりビビッて泣き出したりした。
昨今の世知辛い世の中では、許し難い行為であろうが、これも俺らにとっては大事な遊びの一種だった。そこに参加していない他の同級生、特に女子には冷ややかな眼で見られていたのは間違い無いが。また、前出のやられていた一人の他に標的がいたかどうかは、今では記憶が曖昧である。
俺らがガキの頃の学校は、授業時間以外のガキどおしのコミュニケーションの場として、そして大人社会の手前のガキの社会の中での自己の形成に多いに役立っていた。最近の子供達はなんだか異常に忙しいらしく、そこのところをうまく使えないようだ。だから、子供のまま社会に出て,尚且つ,子供のまま生き続けているようにみえる。
さて、余談であるが,俺の下の名前=NOBORUは、登山の『登』と書いて『ノボル』と読む。どうってこと無い名前だが,実は生まれた時につけられた名前はどうってこと有る名前だった。読み方は今と同じ『ノボル』、でも漢字が『上』という字を当てて,『ノボル』と読ませた。で、名字が『川上』な訳で,続けると『川上上』。『カワカミカミ。。。』
不良の親父が3・3・3(画数が)のカブで、縁起がいいだろうってことでつけたらしいが,バアさん(親父の母・俺のほんとの祖母)の当時凝っていた生命判断によると、3文字で総画が9画というのは、最悪で、なんでもうまくいきすぎて早死にするという。そんな訳で,俺が小学校に上がったぐらいの時期に裁判所において戸籍を変えるという騒動が起こった。
そんな時、前回のブログに出ていた俺の伯父貴が何を思ったか、新命名として『源志郎』(ゲンシロウ)という名を俺につけた。俺は,しばらくその難しい漢字に閉口しながらも『源史郎』を名乗っていた。しかし、戸籍というのは文字を替えても読み方を変えない、またはその逆に文字を替えずに読み方を変えるかのどちらしか認められないらしく、和え無く伯父貴の『源史郎』案は却下され,今の『登』に落ちついた。
俺は,友達から『上』と書いて『ジョー』と呼ばれていたので,結構気にいっていたのだが。
今の俺の名前は『川上登』。川の上を目指して必死に登っていく。その上の世界を目指して。
俺の世界征服の長い道のりは『川上登』になった時から始まった。
これはこれで、結構気に入っている。